日記

興味深い間違いをしているツイートがあったので備忘的に。
霞ヶ関の住人が「競争に晒されて」「勝ち抜いて」「生き残ってきた」こと自体は真で、このツイート者の認識は明確に間違っている。彼らは同期入省同士で出世競争を行っている。もちろん世間、ここではツイート者が思っているように、「皆で一切の回り道なく出世して」と勘違いされる要素はある。彼らは、特に若手のうちは表向きは出世の速度に差がつかず、同期入省は同じように出世してはいく。ではどこで差がつくかというと、40以降になると「肩たたき」が始まる。出世をしない官僚は存在しないのだ - なぜなら彼らは官僚でなくなるのだから。出世の階段を1つ登るたびに同期が1人2人と減っていき、定年時の「アガりポジション」にいる時には同期は自分一人になっている。これが競争的でないというなら、何をやったら勝ち抜いた人となるのだろうか。少なくともGoogleのエンジニアはそうではない。

そして霞ヶ関官僚のクビをかけた出世競争は、かのウェルチ・ルールそのものと言える。それがどういう結果を産むかは、IT業界の人なら知っている人も多く江添氏のような認識になるだろう。 

もちろん霞ヶ関では出世競争に破れた官僚も外郭団体などに押し付けて、本人の生活保障と官庁の影響力確保を兼ねた生涯保証をやってきたという面もある。しかし競争がないから無能なのだという議論は明らかに間違っている。 ここまでは単なる事実の確認なのだけれど、元ツイート者は「組織間の競争」と「個人間の競争」について興味深い混線をしているように見える。昔から「官庁に競争がない」という批判がある時、元々は(民間企業と比較した時に)組織間の競争がないことに対するものだった。省庁単位で見ると、競争がないという批判は基本的に正しい。


ところが元ツイート主にとって、競争といえば個人の次元で行うもので、組織間競争という解釈は無意識に避けてしまっているようだ。元ツイート者は極貧ポスドクなどを経て現Google Japanに勤める高給取りで、極めて氷河期世代らしい辛いキャリアを過去に送っている。その生き残りにとって、競争とは個人が食うか食われるかで戦うものなのだろう。主流派経済学ですら「市場原理」と但し書きなしで書く時は、企業間競争をまず意味するものなのだけれど。氷河期を「競争に晒されて」「勝ち抜いて」「生き残ってきた」本人からすれば、厳しい競争を勝ち抜いた個人こそ価値があり優秀だという認知からは逃げられないのだろう。

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